これこそが、出版界の大事件。マニア垂涎の稀覯本がリクエスト1位でついに復活! ヘレン・マクロイ「幽霊の2/3」


「昔、旧版の『幽霊の2/3』を読んだという人に、たった一人だけ会ったことがあってさぁ」

 例によって、前触れなく思い出を語り始めると、タカオさんは壁の一点を見つめて思わず目を細めました。

「すっごく羨ましかったことを憶えてる。だってさ、ヘレン・マクロイだぞ! 『幽霊の2/3』だぞ! 『殺す者と殺される者』だぞ! ミステリマニアのみならず、古本マニア、ビブリオマニアなら喉から手が出るほど欲しい本じゃないか。それをさも当然のように『読んだことがある』って言うんだもんなぁ。とにかくその時は、すんごくビックリしたワケよ」

 今の価格は判りませんが、当時はヤフオクでも、ボロボロの本が1冊2〜3万円位で取引されてましたからねぇ。ネット古書店でも同じ価格帯な上、入荷があるとすぐ買い手が付くほどで、まさに「幻の本」でしたから。そりゃ、読み手も限られてくるでしょうに。

「ところが、話を聞くと、それが納得できる面もあったのよ。というのも、オレはそのとき全然知らなかったんだけどさ、その人は、ヘレン・マクロイについて某所で解説を書いてた人なのね。それを知ってオレは、二度ビックリしたワケ。でもオレの内心は、驚きを通り越してそのうち、『納得』から『安心』へと変化していったのよ。わかんないかなぁ。つまり、アレだ。『幽霊の2/3』という本は、“そういう立場の人”でないと手が届かない、読むことができないレベルの稀覯本なんだ、と」

 そう考えたら、今回の復刊の意義は大きいですね。一部の好事家のみが堪能できた隠れた名作を、再び日の当たる場所に引きずり出してきたわけですから。タカオさんが古本屋を駆けずり回って10年越しで探し続けていた本が、全国の新刊書店の本棚でどこでも簡単に買えるようになったんですからね。しかも、すえた紙のにおいがするボロボロの本じゃなく、完全無欠にピカピカの新刊が。それも、千円出して何とおつりまで出てくるという。これじゃあ、この本を買わなきゃ、もうどうかしてるとしか思えません。

「その通り。『私に涙腺があれば 泣いております』*1って感じ。でもどうせ、結局この本を買って読むのは、そういう一部の好事家だけなんだろうけどな」

 そこで、私たちの出番なんじゃないですか。広く、一般の人に読んでもらえるよう、この場でちゃんと紹介しておかないと。そんなわけで、今回のお題は、ヘレン・マクロイ幻の名作「幽霊の2/3」の新訳版です。ちなみに、この冬には何と「殺す者と殺される者」も新訳で登場するとのこと。ちょうど品切れになってた「家蠅とカナリア」も重版されるようですし、“あわせて読みたい”というファン心理を東京創元社は、よく理解してますね。

「今から数年前に、『家蠅とカナリア』『割れたひづめ』『歌うダイアモンド』と、ほぼ同時期にヘレン・マクロイのベイジル・ウィリング博士のシリーズが固め打ちで出版された時期があったんだけど、今回は、それ以来のプチブームだな。もっとも、ブームと言っても、極めて限定的な範囲の読者の間でだけかもしれないけれど」

 で、肝心の「幽霊の2/3」のあらすじはこんな感じ。人気作家エイモス・コットルを主賓とするパーティが出版社社長の邸宅で開かれる。集まったのは、エージェントや批評家、作家の別居中の妻、など思惑がある者たちばかり。そんな中、余興のゲーム"幽霊の2/3"が始まった。衆人環視の中、毒殺された人気作家。現場に居合わせた招待客・精神分析医ベイジル・ウィリング博士は、事件の背後に潜む人間関係の闇と、恐るべき毒殺事件の真実を解き明かすのだった。――というお話。「家蠅とカナリア」もそうでしたが、殺人事件の真犯人のことよりも、それ以外の謎の方が物語の中核になっていて、またその部分の方が面白い、そういうタイプのミステリですね。

「今回は、舞台となるのが出版界の話、というのも気になる所ではある。あと、ハリウッドとかそれに関わる映像関係の話題とかね。ミステリを含めた大衆文学に対する作者の考えが見え隠れしているようにも思えるしな。まぁ、読み方によっては、この部分こそが真の本題なんじゃないかと邪推してしまいたくなるくらい。ストーリーの展開に関しては、序盤で、出版社の社長夫婦とエージェント夫婦が、作家の悪妻をいかに引き留めるかで右往左往する様が面白くて、ずっと引き込まれるように夢中で読んでたんだけど、中盤辺りからその態勢が覆されてしまうのもまた面白かった。もうね、正直な話、どいつもこいつも嘘つきばっかりに思えてくる。それが愉快」

 作家に対する批評家側からの評価に関してもそうですね。とある批評を、ある人物はあてこすりの産物だと捉える。別の者は、嫉妬に駆られた者の言葉だと考える。でも、現実にはどうなのか……。凄い貶し方をしているようにも思えるんですけど、実際には意外とまともで、正鵠を射ている評なのかもしれないんですよ。もっともそれについての真実は、私たち読者にはどうにもわからないわけですが。ちなみに、私は個人的に、作中の以下の会話が特別お気に入りなんです。ベイジル・ウィリング博士と辛口の文芸批評家エメット・エイヴァリーの、歯に衣着せない大衆文芸論なのですが……。


「さて、ここで興味深い疑問がひとつあります。毎年エイモスと同じタイプの作家が一ダース以上現われ、ぱっとしないまま半年も経たずに忘れられていくのに、なぜエイモスだけ大成功したのか」
「宣伝の効果でしょうか?」ベイジルが言った。
「惜しい。宣伝で本は売れませんが、映画は売れます。そして映画が本を売ってくれるんです。主客転倒ですね。(中略)要は生産性なんですよ。彼は過去四年間、一年に一冊ずつ、同レベルで同スケールの作品をたゆまず出し続けました。エイモスにあって、似たようなほかの作家にないもの――それは駄作の執筆における桁外れの、ほとんど超人的な生産力です。(中略)だからぼくは彼の作品が嫌いなんです。薄っぺらさといんちきは大嫌いなんです。(以下略)」

(P.174-P.175)

「『駄作の執筆における桁外れの、ほとんど超人的な生産力』って言われてもなぁ……。なんか、ライトノベル作家の話をしてるみたいだ*2。まぁ当然のことながら、ヘレン・マクロイのこの作品は決して駄作などではないので、安心して読めること間違いなしだけどね」

「幽霊の2/3」なんて作品名をつける時点で、格の違いを見せつけられた感じですね。タイトルの意味を知ったとき、思わず「そうか!」と膝を打ちましたので。何はともあれ、今回は大満足の一冊でしたよ。願わくば、本書と次回刊行予定の「殺す者と殺される者」の売り上げが順調で、「歌うダイアモンド」の文庫化までも実現されればいいと思います。

「そうだな。オレは絶対、マクロイの最高傑作は、『歌うダイアモンド』所収の短編『風のない場所』だと思ってるからさ」

 何もわざわざ、ミステリの大御所作家のベスト作品に、SF短編を選ぶことはないでしょうに……。まぁ、別に良いですけど。


幽霊の2/3 (創元推理文庫)幽霊の2/3 (創元推理文庫)
ヘレン・マクロイ

東京創元社 2009-08-30
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ISBN:9784488168056

*1:TVアニメ「ファイアボール」におけるゲデヒトニスの台詞

*2:「別に、ライトノベル作家が駄作ばかり書いている、と言うつもりは毛頭ない。生産性が何より問われる、という点からそう連想しただけだ」とは、タカオさんの言。