君は、時間を忘れて作品に没頭したことがあるか!? メディアワークス文庫賞 堂々の受賞作。野崎まど「[映]アムリタ」

[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)
野崎まど


アスキー・メディアワークス 2009-12-16
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ISBN:9784048682695

「かつて、一世を風靡したゲームがあった。『機動戦艦ナデシコ』の後藤圭二がキャラデザを担当し、後に『攻殻機動隊 S.A.C』でブレイクするProduction I.G がアニメパートを制作したアドベンチャーゲーム平松晶子水谷優子折笠愛森久保祥太郎が声をあてた、あのゲーム。知ってるかね?」

 珍しく、本ではなくゲームの話をはじめると、タカオさんはこちらを振り返りました。

「『やるドラ』シリーズ第1弾、と言った方が有名かもしれないけどな。甘酸っぱい青春物語に見せかけて、その実、選択肢によってはトラウマものの惨殺シーンが出てきたり、ミステリ要素が加わったりする、あのゲーム。サスペンス・ホラーの傑作。わかるだろ?」

 随分、懐かしい作品ですね、そのゲーム……。当然私もやりましたよ、『ダブルキャスト』。選択肢を選んでもすぐに分岐せず、かなり後の方でまとめて枝分かれするものだから、頭の中のチャートが大層こんがらがった憶えがあります。達成率100%はおろか、全EDを見るのもままならなかった、非道いゲームでしたね。――名作ですけど。

「頭に植木鉢喰らったら、即ジェノサイドフラグが立って、館炎上・登場人物皆殺し――というとんでもない展開が待ち受けてるんだよな。オレ、何度喰らったか判んないくらい、ぶつけられてひたすら気絶しまくってたけど」

 しかも、その惨殺エンドだけでも数パターンあるせいで、何回も殺され続けないといけないという……。ちなみに、あの植木鉢って、シナリオを途中から始めると100%回避できるんですけど、そうすると今度は、必要なフラグが立たなくなるのでグッドエンディングが見られなくなってしまうんですよね……。一体誰ですか、そんな極悪な罠を思いついたのはッ!

「『やるドラ』じゃない、『殺るドラ』だ。なんて、思わず上手いこと言いたくもなるわな。*1とにかく死んだ。ひたすら殺されまくった。撮影合宿中に殺され、試写会中に殺され、空き家に呼び出されては殺された。だからオレの中では、大学生の自主制作映画=死亡フラグ、という極端な構造がスッカリできあがってしまってるんだが……」

 ――そんなわけで、今回の課題本は、大学での映画制作サークルが自主制作映画を作る物語・野崎まど*2「[映]アムリタ」です。錚々たる顔ぶれが並ぶメディアワークス文庫(以下、MW文庫)創刊ラインナップに於いて、新人デビュー作というのもさぞや肩身の狭い思いをさせられるだろうし、可哀想なことだなぁと案じていたのですが、読めばもうそんな事は完全に杞憂であったと思い知らされました。この一冊を世に出しただけでもMW文庫は誕生した価値があったな、と素直に感嘆致しましたよ。いやはや、驚かされました。

「会話文を主体とした一人称文体、強烈に個性的なキャラクター、適度に笑いを起こさせて場を弛緩させるボケとツッコミ。そして、数々のことばあそび。初期型西尾維新の再来と思われても仕方ない。だから、むしろライトノベルレーベルで出した方が売れるんじゃないの、という声が上がるのも、むべなるかな。まぁ、どちらにせよ広く読まれるにこしたことはないと思う」

 物語を簡単に紹介すると、大学の自主制作映画に役者として参加することになった二見くん。この映画を監督するのが、天才と噂される謎の美少女・最原最早さん。新たな仲間達との友情がはじまり、順調に撮影は進行する。しかし、やがて二見くんは、ひとつの疑問を抱くようになる。最原最早が自主制作映画を作ろうとしたのは一体何故なのか――。大学青春物語が、ミステリ的な要素を孕み、ついには驚愕の展開へ。ジャンルを横断する予期せぬ展開に、読んでるそばから、心臓がもうドキドキです。また、なんだかんだで、会話中心の通常パートも結構面白かった。ところが、サスペンス要素の印象が大きすぎて、それらのインパクトも全て、読後は根こそぎ刈り取られてしまったのですけど。


■「[映]アムリタ」は、「学園『ビデオドローム』」!?

「さて、話を始める前に、さっき『[映]アムリタ』の作者・野崎まど へのインタビュー*3を見つけたので、とりあえず読んでみた。その中で、この作品は、“学園『ビデオドローム』”だという評が出てきたのだが、この言葉にまず爆笑。いやぁ、考えた人、センスあるよなぁ」

 『ビデオドローム』って確か、『裸のランチ』のクローネンバーグ監督が撮った作品でしたっけ……。私は、よく知らないんですが。

「オレは昔、深夜放送で観たよ。この作品をわざわざテレビの深夜放送でやる、というのは、予算の関係だろうとはいえ大変面白い試みだった。まぁ、結論を言うと、オレも途中で寝ちまったんだけどな。いやいや、怒るな。聞いてよ。だってさ、あんなの夜中に観れないよ。絶対寝る。まず寝る。まぁ要は、映像に魅入られておかしくなる男の話……と説明したら判るか。それでいいだろ。どうせカルトSFムービーなんだし」

 でも、『[映]アムリタ』の方では、その『ビデオドローム』みたいに、できあがった作品が放映・複製されることに主眼があるのではなく、作品を制作する過程の方にストーリーの主眼があるわけでしょう? 本質的には、両者は全く異なる気がしますけれども。……もっとも、作品を読み終えたら確かに、その評の言わんとするところは判るような気がしますけれどね。まぁ、複製にも色々あるってことですかね。


■“天才”最原最早。彼女の描いたシナリオとは?

「さて、それではいつもの通り、本格的に物語の展開を読み解いていこうか。例によって、以下は完全にネタバレトークね。未読の人は、ここで引き返しておくように。それじゃあまず、本書最大のポイント“最原最早の目的”から」
 いきなり核心ですね。もっとも、本作ではそこが全ての始まりでもあり終わりでもあるので、どうにも仕方ありませんが。それじゃいきます。

「やっぱり手間はかけるものですね」
 そう言うと彼女は力を抜いて、長く息を吐いた。
「二見さん、ありがとうございました。私が求めていた以上のものを提供していただきました」
 最原さんはお礼を言った。
 微笑んでいる。
 嬉しそうだった。

(P.225)


「P.225の“私が求めていた以上のもの”とは何か。それがこの物語の核心だ。そこで、順に見てみよう。主人公の二見は、天才・最原最早が監督する自主制作映画『月の海』に役者として参加することになり、彼女と親しく関わるうちに、やがて彼女の目的について疑念を抱くようになる。そして、ひとつの推論をたてる。最原最早が創ろうとしているのは、『月の海』ではなく『アムリタ』ではないのか、と。『アムリタ』というのは不死の霊薬。すなわち、死んだ定本を生き返らせる奇蹟の作品。その作品づくりこそが最原最早の目的であり、映画『アムリタ』の存在意義であったのだ、と。だが、それは間違いだった」

 二見くんは、残された絵コンテから自分で『アムリタ』を完成させます。それは、二見くん自身のために創られた映画。最原さんが考案し、倫理的葛藤から創り出すことができなかった作品。二見くんを殺して、定本さんを甦らせる作品だった。――少なくとも、二見くんはそう考えていた、というわけですよね。


 もうすぐ映画が始まる。走馬燈が見られないかなと期待してみたが、そんなものは流れなかった。
 四〇分の上映の後、僕は、もう僕でなくなってしまう。
 だけどこんな状況においてもなお、僕には一片の後悔もなかった。それどころか、これまでにないほどの達成感でいっぱいだった。
 なぜなら。
 さっき。最原さんの恋人になれるなら悪くない、と言った時。
 あの時の彼女の顔を見られただけで、僕のラストシーンは大成功だった。
 僕は監督が求めている以上の素材を提供できた事を、心の底から喜んでいた。僕の人生はこのシーンのためにあったのだろう。最後にNGを出さなくて本当に良かった。

(P.201-P.202)


「二見は、最原のために自分が死んで定本を生き返らせようと試みる。ところが、それを最原に制止され、二見は定本になることなく、彼らは結ばれることとなった――ハッピー・エンド。そのはずだった。ところがそうは問屋が卸さなかったわけだな。その二見の行動すらも、実は最原のシナリオ通りだったのだ、と」

 最原さんは、二見くんが彼女のために命を捨てようとすることを予想していたわけですよね。いやむしろ、そう仕組んでいた。最原さんが望んでいたのは、彼が自分への愛のために命がけで行動に出ることだったんです。彼女はそれを“演出”し、実現させた。それこそが、彼女の目的の1つだったわけです。


「私たちはこれから映画を撮ります」
 僕の言葉を途中で遮って、彼女は言った。
「映画は素晴らしいものです。映像を通して、人の人生に語りかけることができる」
 彼女は遠くを見つめながら、映画の素晴らしさを語った。
 映画は人の人生に語りかけることができる。
 何も解り合えなかったこの不毛な会話の中で、判ったのは彼女も映画が好きだということ。その一点だけだった。
「私たちの作る映画は」
 彼女は僕に向き直り、もう一度薄く微笑んだ。
「とても素敵なものになりますよ」

(P.30)


「P.30の最原の言葉は伏線だ。ここでいう“私たち”とは自主制作映画『月の海』を作ったメインの4人のことではない。監督・脚本・演出・出演・最原最早、主演・二見遭一。“私たち”とはこの2人だけを指す。そして、その2人が作る“映画”とは、もちろんスクリーンに映し出される二次元の話ではないんだ。『月の海』でもなければ、『アムリタ』ですらない。2人が経験し、乗り越える、名も無き“愛の試練の物語”だ」

 そうなると、P.30の文章は、文脈上意味が全てひっくり返ってしまいますね。彼女が「遠くを見つめ」ていたのは、二見くんではなく死んだ定本さんに思いを馳せていたからだし、彼女が「映画の素晴らしさ」を語ったのは、映画の“作品としての素晴らしさ”ではなく、これから自分が行う計画、その手段としての“映画”の意義深さを語ったに過ぎないわけですから。そしてもちろん、二見くんが感じていたようには、彼は最原さんのことを判ることができなかった……。彼女はあまりに天才過ぎたのです。


 映画の神様は、兼森さんに、画素さんに、僕に、一体何をさせようとしているのか。
 聞いても答えは返らない。
 映画の神様は、映画を見せないと何も答えてはくれないのだ。

(P.63)

「二見の役割は、初めから決まっていた。唐突に舞台から退場してしまった定本の代わりに、最原の恋人役を演じさせること。恋を、愛を知らない最原に、“恋とはどんなものなのか”を身をもって経験させる役割。命を賭けて最原を愛する道化。ただ、それだけのこと」

 一方、最原さんは、二見くんのことを、また定本さんのことを、果たして愛していたのでしょうか? それはちょっと判りません。その問題は、あとで触れるとして、少なくとも、最原さんが求めていたのは、“自分が愛した誰か”でなかったことは確実でしょう。彼女が欲していたのは、純粋な知的好奇心から来る「情報としての恋愛経験」に過ぎないのです。失ってしまった定本さんを、二見くんの身体を使って取り戻す。そんなロマンチックでリリカルな感情を、最原さんは実は獲得していない。そんな感傷はもはや、天才・最原最早には馴染まない。こういった彼女の超然とした冷徹さこそが、一見ただの青春小説だったこの物語を恐怖小説へと変貌させる起爆剤になっているのですね。もし彼女が純粋に定本さんを愛していて、死んだ彼を取り戻すために全てを仕組んだというだけで終わっていたら、この小説はもっと判りやすくなっていた反面、ただの凡作に終わっていたに違いありません。

「ところが、実はロマンスの萌芽が全くなかったわけじゃないんだ。それがラストシーンのひと言なんだけど……」


■戦慄のラストシーン。最原最早の寂しそうな微笑のワケは?

 僕は首だけ動かして隣の彼女を見た。
 最原さんの顔からはもう微笑みが消えていた。いつものようにしっかりと目を見開いて、スクリーンではなく虚空を見つめている。
 ピンで分けられた前髪の間。ぴたりと見開かれた最原さんの目は、何も見ていないようであり、全てを見ているようだった。
 僕は知っていた。
 僕は彼女のこの表情を知っていた。
 この顔をする時の最原さんは考え事をしている*4
 ほんの、二十秒ほどの沈黙の後。
 最原さんは僕の方を向いた。
(中略)
 最原さんは、言った。
「二見さん。そのまま、次の映画に出ませんか?」
(中略)
「ですよね」
 最原さんは少しだけ残念そうに言った。

(P.227-P.229)


「“天才”最原最早は、神にも等しい存在だ。自分の思い通りに、なんだってできる。他人を操ることもできる。二見に自分を愛させたまま、次の映画に出演させることなど造作もない。それでも、最原は二見に質問する。“定本の人格を持ったまま、自分の恋人で居続けないか”と。二見からの無言の返事に、彼女が残念そうな顔をしたのは、それが彼女が初めて経験する“失恋”だったからなんだろうね」

 うーん、実は、私はそのタカオさんの見解は支持できないんですけどね。仮に、最原さんが二見くんを引き留めるために「次の映画に出ませんか?」と誘ったのならば、最原さんの行動には、どうも一貫性がないように思うのです。自分を愛した男が、自分によって既に破滅させられていたことを知り、絶望する。その姿が見たかった。最原さんの最終目的地点がここなのは本人の言があるので間違いありません。しかし、その上で、二見くんを自分のそばにとどめておきたいとする感情を彼女が持ったとすれば、それはどうにもアンビバレンツな感情だと言わざるを得ませんので。

「そうかな。別に、アンビバレンツでもいいんじゃないか。人間の愛情にも色々ある。対象を独占し、ひたすら愛でたいという感情もあれば、対象を自分の手でバラバラに粉砕したいという破壊衝動もあるだろう。愛情表現も一様ではないよ。無償の愛を“アガペ”といい、狂気の愛を“マニア”と呼ぶ。破壊衝動を伴うものは広い意味で“タナトス”に含んでもいいと思うし。死への衝動を意味するタナトスも、愛の一形態だよ」


 

僕は続けた。
「定本さんに顔が似た僕を呼んできたのも、思い入れを煽るための演出の一つだったんですね」
「そうですね」最原さんは何の悪びれもなく答えた。「それもあります」

(P.188)


 それに、こっちの理由の方が大事なんですけど、個人的に、最原さんには恋愛感情を持って欲しくないのです。天才として孤高の存在であって欲しい。所詮人間に過ぎない二見くんや定本さんに、入れ込んで欲しくないのですね。私が。物語の展開上、そっちの方が断然うつくしいと私には思えるのです。それに実際、ラストシーン直前の場面を見ても、最原さんは“愛”という言葉を一切使っていません。ケチャップで「LOVE」と書かれたトーストでさえ、自分で食べてしまう徹底ぶりですし。私の方の解釈を言えば、最原さんは純粋な好奇心から二見くんを再び映画に誘ったのではないかと思っています。美しい糸で織った織物をその全てを保ったまま縦糸にして、さらに織った織物。それをふと試してみたくなった、それだけのことではないかと。

「オレの解釈では、最原は二見からの愛情を失ったため孤独を感じ、最後に寂しそうな顔をした、という事になる。一方、佐久良タンの解釈では、最原は自分の知的好奇心を充足できず、それを理解されなかったが故に孤立を感じ、寂しそうな顔をした、となるワケか。まぁ、解釈の問題だから、どちらでも好きなように判断すればいいんだろうけどね」

 あと最原さんの“微笑み”についても要注目。先の引用部分にも出ていましたが、最原さんは頻繁に「薄く微笑み」ます。いわゆる、アルカイック・スマイルですね。これが標準の彼女の表情なのでしょう。最原さんが目的を達成し「幸せそうに微笑む」のが本作のラストシーン。逆に、全く笑わなくなるのが、考え事をするとき。そう考えると、結構わかりやすい人でもあるんですけどね。最原さん。

「そこは、作者の描写力の問題もあるんじゃないかと思うけど……。それにしても常に笑ってる美人さんって、オレに言わせりゃ結構怖いよ、それ」


■結局、最原最早の『アムリタ』とは何だったのか?

「さて、いくら御託を並べていても仕方がないので、ひとまず整理に入ろうか。作中に於いて、最原たちが制作したものは一体いくつあったのか。

   (1) 画素から二見に手渡された『月の海』の絵コンテ
   (2) 4人が撮影した、自主制作映画『月の海』
   (3) 最原の自室で二見が見つけた『アムリタ』の絵コンテ
   (4) 二見が最原宅の絵コンテを元に編集して作った『アムリタ』
   (5) 最原の受験応募作“神様の作った映画”
   (6) 最原が劇場で二見に見せた“二見のための映画”


(5)と(6)は今回置いといて、問題の『月の海』と『アムリタ』の関係についてまとめてみる。二見は当初、鉛筆書きの絵コンテ(3)を最初に読んだ絵コンテ(1)の下描きだと勘違いした。しかし、その後、映画『アムリタ』(4)を作るために映画『月の海』(2)を「作らされていた」のだと考え直し、失踪した最原の部屋から絵コンテ(3)を持ち出し、『月の海』(2)の素材を編集して映画『アムリタ』(4)を作り上げた。……ややこしい? いや、落ち着いて考えれば簡単な話だ。二見によれば(4)は定本を甦らせる映画『アムリタ』であり、これを観れば自分は死に、死んだ定本が甦ってくるはずだった。だが直前で、最原に止められた」

 しかし、事実は違うんですよね。実際には最原さんは、既に『アムリタ』を作っていた。そしてそれを映画撮影の前に、実は二見くんに見せていた。最原さんが作った真の『アムリタ』。それはもちろん、(4)ではなくて、(1)の絵コンテなのです。二見くんが50時間、読まされ続けていたあの絵コンテ。あれこそが真の『アムリタ』でした。P.22〜23で本のページが一面真っ白に変わるあの印象的な場面。あの時点で既に、二見くんは最原さんに「殺されて」いたのでした。いや、さすがにそれは、気付かなかったなぁ。

「つまり、目的と手段が、ここでも逆転している。本来、自主制作映画を撮るための素材であるはずの絵コンテが、実は、それを読ませた相手と一緒に映画を撮るための引き金になっている。だから自主制作映画『月の海』(2)自体には、実は大して意味がない。最原が、一度死んでその後甦った定本(二見)と一緒に撮った作品である、という点と、後に二見が自力で『アムリタ』(4)を作るための素材となった、という事実が残る以外には」

 改めて整理してみますと実に簡単な構図なのですが、最後にこの事実を明かされると、やっぱり驚きますよね。それも、自分の命と、「断固たる決意」に関わる部分なだけに衝撃もひとしお。ひとりの女の子のために命を捨てようとさえした、男の心意気。深い愛情。しかし、その決断さえ自分が本当に決めたものではなかった。あらかじめ予定されていた幻の感情だった。そして、それを仕組み、自分を殺したのが、その当の女の子本人だった。これは、クるよね。

「冷静に考えたら、何もわざわざこんな回りくどい事しなくてもいいのに……って思うけどな」


■天才・最原最早は、偶然さえも味方に付ける!?

 それにしても、最原さんの天才性も、とどまるところを知りませんね。普通に考えれば、最原さんのシナリオ通りに全てが進行するなんて、そんなことはまず不可能なはずなんですよ。なぜなら、二見くんが失踪した最原さんの自室から絵コンテ(3)を持ち出すためには、必然的に二見くんが最原さんちの鍵を持っていなければいけないんです。ところが、二見くんが持っていたこの鍵は、偶然に画素さんから譲り受けたものでした。通常ならば、これは流石に説明がつかない……。

「そこで、P.72にあった「月の海」撮影中の最原最早の演技なんだよ。カメラにのみ向けられた最原の演技を映し、画素は撮影中に突然倒れる。それ以上の描写はないが、おそらくあのとき、最原は、画素が二見に家の鍵を渡すよう命令したに違いない」

 しかし、そう考えても、画素さんが最原さんちの鍵を渡したのは偶然なのかと思うのですが……。


「勝負をしましょう。私のキーホルダーには今、鍵が七つ付いてます。これを後ろ手に持ちますから上から何番目かを言ってください。その鍵を二見君に差し上げますから」

(P.78)


「馬鹿だなぁ。本編よく読もうよ。確かに、画素と二見のやり取りからだと、一見して二見が選択権を持っているように見える。けれども、画素がどの鍵を二見に渡すかについて予め決めていたのだとしたら、二見が何番目を選ぼうが全く関係ないんだ。何番目を指定されようと、後ろ手で画素が調節すればそれで済む。キーケースなら付け替えなきゃダメだけど、キーホルダーならいくらでも上から下に回せるじゃないか。いわゆるマジシャンズセレクトの一種だな。画素はいつでも、最原の自宅の鍵を二見に渡せる」

 いや、そうじゃないんです。問題はそこじゃない。問題は、鍵が二見くんの手に渡ったのは、彼が画素さんに鍵を渡すよう提案したからだ、という点です。これは流石に必然とは言えない。

「うーん。そこは強引に考えれば、二見(定本)の性格上、画素に鍵を渡せば彼もそれを画素に要求する、と最原が読み切った、としか言いようがないな。まぁ、この時点で二見は最原に人格改変されているので、なんとでも説明はつけられそう。なにせ最原最早は“天才”なんだから」

 “天才”って、すごく便利な言葉ですね。


■「[映]アムリタ」は、人生?

「それに、これは最原さんのためだけじゃないんですよ。この映画、『アムリタ』は僕がずっと見たかった映画なんです。人の心を丸々変えてしまうような、そんな人智を超えた映画。まさしく神様の映画じゃないですか。そんなの、見たいに決まっている」

(P.199)


「さて、長くなってきたので、そろそろまとめに入ろう。結局のところ、本書の読みどころはドコか?」

 そりゃ勿論、アッと驚くラストのどんでん返しとなるんでしょうけれど、それまでの過程で繰り返された、主人公のツッコミ芸にもなかなか光るものがありましたよ。日常における他愛ない会話の応酬が、非日常的な驚愕の事実とのギャップを生んでいるのでしょう。そのどちらもが面白かったです。

「前述の作者インタビューでは、作者はラストを思いついてそこから物語を書き始めたって述べてるんだよな。これはつまり、作者は、作中の最原最早と同じ事をしてるっていうわけだ。結末の展開が全ての目的になっていて、そこに至るまでのシナリオを巧妙に隠蔽しながら紡ぎ出す。無理を承知で言うけど、これはある意味、入れ子型の構造になってると言えなくもない。美しい織物を縦糸としてさらに織物を織る。最原最早ができなかったことを、作者自身はやってのけた。オレは、そこが面白かった」

 そんなメタ的な表現されても、困るんですけどね。ちなみに、冒頭で話した『ダブルキャスト』や『ビデオドローム』の話。『ダブルキャスト』は「見るドラマからやるドラマへ」というコンセプトを意味する「やるドラ」シリーズの第1弾なわけですが、その内容が「自主制作映画の制作」というストーリーだという点には、大きな意味がありました。また、タカオさんが経験した「『ビデオドローム』の深夜放送」というのも、「深夜放送に没入していく狂人」の物語を追体験したのだとすれば、これもまたメタな話なわけで、何と言いますか、シンクロニシティを感じますね。まぁ、それについてはただの偶然なんですけど。

「結局、作者の意図が、単にあのラストシーンが書きたかっただけなのか、それともそれを通じてそれ以上に表現したいことが他にあったのか、それについてはオレたちには判らない。けれども少なくとも、この作品を最後まで一気に読ませるだけの勢いがあったのは確かだった。非常に満足だったので、次作が出たら真っ先に読んでみたいとは思った。オレとしては充分満足」

 そう言うと、タカオさんは本を置き、次のMW文庫を読み始めました。「[映]アムリタ」の作中で、二見くんが味わった「人生を変えるような作品との出会い」。そんな出会いが、私たちにもまだまだあったらいいのにね。


「深く感動させる、というのは」
 答えてくれたのは最原さんだった。
「上映時間、例えば二時間の中で、見た人を笑わせて、怒らせて、泣かせて、希望を抱かせて、失望させて、願わせて、祈らせて、諦めさせて、死にたいと思わせて、それでもまた生きたいと思わせる。そういうことです」
 無理だ。直感的に思った。
 時間が足りない。二時間では圧倒的に時間が足りない。いや、きっと四時間でも六時間でも足りないだろう。
 ただ同時に、映画を作るということを突き詰めたら。本当にどこまでも突き詰めることができたら。僕らの求めているのは、そういうものなのかもしれないとも思った。
「映画を見て、人生を過ごしたのと同じだけの感動を与えられればいいんです」
 彼女はそんなことまでも事も無げに言うのだった。

(P.51)



*1:湯船の血溜まりに浮かぶ死体を引き上げたら、傍らに立ってた女性キャラが嘔吐する、なんて演出とかまである気合いの入れようでした。

*2:野崎の「崎」は、本来「大」の部分が「立」の字が正しい。文字化けの可能性を考慮して、便宜上ここでは「野崎」と表記します。

*3:『[映]アムリタ』でMW文庫賞を受賞した野崎まど先生にインタビューを敢行!

*4:「考え事をしている」には傍点有り。