繊細な描線と忘れられない物語。驚異的才能の成果が満を持しての単行本化。四季大賞受賞作「虫と歌 市川春子作品集」

虫と歌 市川春子作品集 (アフタヌーンKC)虫と歌 市川春子作品集 (アフタヌーンKC)
市川春子


講談社 2009-11-20
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ISBN:9784063106176


「結局、マンガというのは、どこまでいっても“絵”なんだなぁ、とつくづく思うよなぁ」

 読み終えた単行本を本棚に収めると、タカオさんがため息混じりに呟きました。

「たとえ印象的な場面やら、心に残るセリフがあったとしても、そこだけを抜き取ったって完全には伝わらない。マンガの中でのセリフだ何だというのは、結局はコマの中での一要素に過ぎない。いや、ページの中の一部分、あるいは原稿用紙数十枚の中の……」

 それで、つまり何が言いたいんでしょうか?

「この作品の圧倒的な魅力を伝えるには、一部を引用して紹介するだけでは、到底伝わりきらないのではないか、ということなんだけど」


音もなく 駆け上がる 足も
草を摘む 手も 全部 僕の指だった

僕のもの だったんだ

――「星の恋人」より


 てなわけで、今回の課題本は市川春子『虫と歌』です。四季大賞受賞作の同名短編のほか、現在(11/20)発売中の雑誌「アフタヌーン」に掲載されている「日下兄弟」までの3編と、描き下ろし2ページ作品「ひみつ」を加えた全5編収録の短編集。「アフタヌーン」では11/25発売号でも新作短編「パンドラにて」が掲載されるようなので、どうせならそこまで収録してくれれば、良かったんですけど……。まぁ、ページ数的に無理だというのは分かるんですけどね。

「この1冊は、間違いなく今年の単行本の中でもBest級に位置する本だと思う。それくらい読後のインパクトがある。特に描写面。市川春子の作品は、どれも構図やらコマ割やらページ構成やら、全てが高いレベルで洗練されていて、思わずみとれてしまうんだよ。デビュー時は高野文子的だと評する向きもあったみたいだけど、こうして作品を続けて読んでいくと、決して模倣で終わっているわけではないのがよく判る。換骨奪胎というか、それとはまた別の“市川ワールド”とも呼ぶべき世界観を自分なりの技法で見事に構築してあるように思う。とりわけ、ページ単位での見せ方が独特。これは物語のリズムにも影響を及ぼしてる所なんだけど、ここぞという場面で大ゴマを用いてみたり場面転換してみたりするのが、中でも印象的だった」

 具体的には、P.11の「今日も元気に 洗濯をしてる」とかですね。日常が突然、非日常へ変化する瞬間。セリフの途中で ため があって、それからページが変わって、いきなり真実が明らかになる。物語としては、この時点でかなりの衝撃を受けるわけですけど、それを効果的に魅せる手法があらかじめ作者に備わってると言いますか。「パァン」という効果音も素敵で、わたしがこの作者と作品の、ファンになった瞬間でした。


日常が非日常へと移行する瞬間


「……ほらね、このコマ引用しただけでは、作品の魅力が伝わらんだろ。これが残念でならない。だからどうしても、『単行本を買って読め』としかいえない。それがもう、たまらなく歯痒い」


■「虫と歌」収録作について

 一応、ストーリーの説明をしておきましょう。まず1本目「星の恋人」。突然、伯父の家にて暮らすことになった さつき。しかし、訪問した伯父の家には、見知らぬ少女の姿があった。つつじという名のその少女が誰か、伯父はさつきに語ったのだが……。と、敢えてここまでしか申しません。上のコマに至るまで、わずか数ページ。普通なら、この発想自体がオチに使われてても不思議じゃないのですが、この物語は逆にここから話が始まります。奇想にあふれた異色短編SFな逸品。

「『お久しぶりね』な初対面と、『はじめまして』な再会。この辺のズレから来る気持ち悪さも、作者の手法なのか。ラストのコマの余韻も見事。自分と、伯父と、少女と。3人で家族だったはずの時間は、つのる少年の思いと共に徐々に狂い始める。自我の芽生えから恋の萌芽、そして狂気な結末へ。まさに傑作」

 次に2本目、「ヴァイオライト」。飛行機事故に巻き込まれた中学生・未来は、墜落現場ですみれと出会う。互いに助け合い、山を下りる2人だったが、別れの時はあまりに唐突に訪れた……。ストーリーラインよりも、むしろ演出が光る作品です。雰囲気だけで感じろ、という作品。3本目、「日下兄妹」。甲子園への半ばにして、肩の故障にあった雪輝。野球部や寮から離れ、自宅で怠惰な生活をしていたところ、謎の生き物が同居をし始めた。ヒナと名付け、妹のように可愛がっていた雪輝だったが、そのさなか、大切なことを思い出し始める――。私はこの、「日下兄妹」が一番好きでした。


「うで 大丈夫?」
「おまえの手くらい ひける」

――「日下兄妹」より


「この話は凄いよ。ヒナは人間じゃないから、顔がないんだよね。つまりのっぺらぼう。でも、不思議なことに“表情”があるように見えてくる。読者が読めないはずの感情が、読めるようになる。これが作者の力量なのか。P.139の伏線とか、初読時にはまったく気付かなかった。そして、P.140&P141の美しさ。この時点でもう、泣ける」

 一見、雪輝とヒナは会話が成立してないように見えるんですけど、肝心な所で気持ちが通じてるというのが分かるので、それが素敵。クライマックスのシーンはその最たるもので、お互い、望んだとおりの回答はしてないんですけど、結局気持ちの部分で通じ合ってたという。ディスコミュニケーションナ話ではなくて、むしろ逆で、ことばではなく心で通じ合うことの大切さ、を見せられたような気がしました。というか、ヒナちゃんカワイー。妹にぜひ欲しいです。

「最後に4本目、四季賞大賞受賞作『虫と歌』。これはまぁ、予備知識なしで読んでもらえれば良いんじゃないかな。画力的には一番未熟な頃の作品だけど、得体の知れない迫力というか、凄みがある。まぁ、とにかくお薦め」



「日下兄妹」より。ヒナには常に顔がない。


市川春子作品に共通の、「自我の確立」と「自然への畏敬」

 とにかく、今回収録の市川春子作品の共通点といえば、話の中では主人公の「自我の目覚め」が必ずつきまとう、という点でしょうか。「ヴァイオライト」の未来は墜落のショックで記憶をなくし、当初名前以外を思い出せないし、「星の恋人」のさつきは、そのまんま自己とつつじの存在について思い悩む。「日下兄妹」の雪輝は、かつての自分が望んだこと・思ったことを再度思いだし、それをヒナに打ち明けた。表題作「虫と歌」にあっては言うに及ばず。“若さ”というのは“未熟”ということでもあるけれど、同時に“可塑性”を有していることも意味するわけで、つまりはいつだって変化可能なんですよね。「日下兄妹」を読んで特に思ったのは、結末の余韻もさることながら、彼らが新たに見据える未来への可能性にも胸を打つものがあった、ということなのですけれど。もちろん、それは本筋とは若干ずれてしまいますけど。

「そして、もう一つが自然への畏敬崇拝なのかもしれんね。虫・植物・星……。webで公開されてる未収録作品も読んだけど、主人公が鉱物だったり海洋生物だったり、作者は、どうやらそういうのが好きな人みたい。デビュー短編『虫と歌』は、それに真っ向から挑戦した作品であると言えそう。とりあえずオレは、まもなく発表になる新作短編も読んで、今後に備えたいと思う」

 そう言うと、タカオさんはしばらく読書する気が失せたのか、本の山をしばらく見つめたまま、物思いにふけり始めました。もっとも、この1冊を読んだ直後では、普通の作品をいくら読んでも面白さを感じられなくなるかもしれませんので、しばらくは大人しく余韻に浸ってれば良いんじゃないですかね。なにはともあれ、久しぶりに素晴らしい異色SF(すこしふしぎ)作品を読んだような気になりました。今回の作品は、マンガマニアは勿論、一般まで広く読まれて良い作品ではないかと思います。断然おすすめ。