探求書との邂逅は、初恋の人との再会以上に感情を高揚させる。奇跡の復刊本「ライノクス殺人事件」


「とりあえず、買え。読まなくてもいいから、みんな買え。別に読む必要はないから、とりあえず買って積んでおけ」

 興奮冷めやらぬといった体で無茶苦茶なことを言いながら、タカオさんが叫びました。

「いいか、“ライノクス”だぞ。六興キャンドルミステリーズ*1だぞ。こんな本を今更復刊するなんて、編集部は狂気の沙汰だと思わんかね。俺がこの作品と巡り合うために今まで一体どれだけの時間を費やしてきたと思ってるんだ*2。海外ミステリ作品の新書本の中でも『超』が付く位の稀覯本。古書相場でも確実に1冊ウン万円する入手困難本。それが文庫で、こうして手に入るなんて、まったく良い世の中になったもんだ」

 えーと。喜ぶんなら素直に喜んでください。要は、「東京創元社、グッジョブ!」ってことで宜しいのでしょうか。

「あのなぁ。今のご時世、出版社も慈善事業で本出してくれてるわけじゃあないんだ。ある程度売り上げが見込めないことには、刊行予定にすら上がらないのは当然のことじゃないか。それなのに、こんな売れる見込みの薄い本を出すなんて、どうかしてるよ本当に。この広い世の中、わざわざ稀覯本を復刊させるなんて聖人君子な編集者などいやしないぞ。おそらく担当は、古本マニアかド阿呆か、それでなければ古本マニアかつド阿呆だ*3。この本の担当者は明らかに後者だな。間違いない」

 そんな事を言ってると、そのうち誰かに刺されますよ、あなた。それに、第一声でいきなり「読まなくていい」ってのは流石に失礼だと思いますが。私にはフィリップ・マクドナルドらしい、実に硬質な技巧派ミステリとして、充分佳作の域と思えました。それに私は、ラストまでオチが読めなくて、素で感心してしまいましたし。

「それは君が、まだまだ純朴なミステリ読者だからだろう。この程度のトリックだったら、名のあるミステリ猛者にすれば、事件発覚と同時にオチから犯人に至るまで全て看破してしまうぞ。時代性を考慮して初めて評価が高まるというのであれば、逆に言えば、今ではさほど珍しくもないトリックだという意味になってしまうしな。ただ、確かに作品が実に巧いというのは事実なんだけどな」

 それだったら尚更、「読まなくてもいい」ってのは、やっぱり不適切な表現なんじゃあ……。

「そこは、復刊本なんだから、とにかく売れなきゃ話にならないだろう。今後復刊してほしい本なんて、山ほどあるんだから、ここでこれ以降の企画がコケてもらうとこっちが困る。だから、まずはみんなに買ってもらわないとな。皆が読むか否かは別の話だ」

 まぁ、往年の名作海外本格ミステリって時点で、一般の読者にはどうしても敷居が高くなってしまうと思うのですが。それにしても、「結末」から始まり「発端」で終わる実験作、ってな世評だったから一体何なのかと思いきや、早い話が広い意味での倒叙ミステリってだけなのには正直肩透かしでしたけれども。

「ある日、とある保険会社に送り主不明の大金が郵送されてくる。それが物語の結末。さぁ、そこに至る経緯はどんなものだったのか、というのが本書の内容なわけだが。けれどもそれまでの経緯は意外と淡々と書かれていて、正直、殺人事件発生までのこのあっさり風味な部分が個人的には一番面白かったように思う。F.Xの好漢さとかマーシュ氏の鼻持ならない様子とか、書き出されてるエピソードも実に巧い。こういう細かいストーリーの積み重ねが巧みに作用して、最後の「発端」につながって行くんだと思うと、やはり「技巧派」と評される作家は違うなと思うね」

 いや、なかなかラスト付近でも一切手抜きはありませんでしたよ。ライノクス社をなんとか持ち直そうとするアンソニーの孤軍奮闘ぶりとか、ミステリ云々を抜きにしても、それなりに魅力的であったように感じましたし。全体的に文量も少なめなので、翻訳小説とか敬遠している人とかにも割とお勧めできる一冊ではないでしょうか。

「いやはや、今回は、予めこちらが期待したほどのトンデモ本では全然ない、というかむしろかなりの良書だったせいで、ツッコミどころもなく割と大人しい紹介にとどまってしまったな」

 普通、ブックレビューサイトって、そういうもんだと思うのですが……。敢えてネタにしようと考えるあなたがおかしいのですよ。
 そんな風に、珍しく穏便に終わった一日でありました。まったく、世は全て事もなし、ですね。

 

ライノクス殺人事件 (創元推理文庫)

ライノクス殺人事件 (創元推理文庫)

*1:六興出版 1957年〜1958年刊行。わずか全13冊でありながら、バラでコンプリートするのは至難の業。全冊セットなど売りに出ても高嶺の花でとても手が出ない。「ライノクス殺人事件」はその中でも最高に入手困難として知られる1冊。

*2:しかも、タカオさんは現在まだ未入手である。

*3:元ネタは、森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』。「よろしいですか。女たるもの、のべつまくなし鉄拳をふるってはいけません。けれどもこの広い世の中、聖人君子などはほんの一握り、残るは腐れ外道かド阿呆か、それでなければ腐れ外道でありかつド阿呆です。ですから、ふるいたくない鉄拳を敢えてふるわねばならぬ時もある。そんなときは私の教えたおともだちパンチをお使いなさい。固く握った拳には愛がないけれども、おともだちパンチには愛がある。愛に満ちたおともだちパンチを駆使して優雅に世を渡ってこそ、美しく調和のある人生が開けるのです」